
これからは「全部音楽」
○なにわのブルース(1)ライブの熱さ、脈々と 2008/04/07配信
「大阪の歌って演歌しかないね」「じゃあ、僕が新しいのを作るわ」。1970年代半ばのある日の夜、大阪・北新地のスナック。マイクを手に何を歌おうかと悩む若い男女と弾き語りの青年の会話が、ある曲を生んだ。弾き語りの青年、つまりBOROの「大阪で生まれた女」である。
もともとこの曲は18番もある。一般に普及しているのはレコードにした時の短縮版。「踊り疲れた ディスコの帰り」という1番は原曲の4番にあたる。
●「触れ合える場」
作詞・作曲を手掛けたBOROは振り返る。「漫才ブームもまだ先の話で、関西弁の歌なんて下品で考えられないといわれた時代」「売れるなんてまるで思わず、詞や曲の形式には全然こだわらなかった」
当時はまだカラオケが普及していない。弾き語りは時に、マイクを握る客の伴奏者にもなった。両者の軽い掛け合いから生まれた、ご当地ソング。しかも18番もある。売れると思わなかったのも無理はない。
だがその後、口コミで人気が広がり、俳優の萩原健一らがレコード化。79年に本人が改めてレコードを出し、大ヒットした。
人々を引きつける、なにわのブルース。その発信地の1つは当時のスナック、今のライブハウスのような「歌い手と客がじかに触れ合える場」である。関西はその数が多い。
例えば、業界で「ハコ」と呼ばれるライブハウス。厳密な定義がなく新規開業や廃業も多いため正確な数は不明だが、業界関係者は「世間にある程度認知されている『ハコ』だけで大阪府に70軒以上、京都府と兵庫県を合わせれば140軒はある」と指摘する。
歴史も長い。73年開業の「拾得(じっとく)」、74年開業の「磔磔(たくたく)」は、ともに京都の老舗ライブハウスとして有名。どちらも大きなステージと広い客席があるような現代的なライブハウスではないが、その分、客は出演者のすぐそばで歌や演奏を満喫できる。全国的に有名なシンガーや海外のアーティストの出演が多く、常連客も多い。
大阪では梅田の「バナナホール」「ザ・バーボンハウス」、心斎橋の「BAHAMA(バハマ)」など、今は営業していない店もかつては「関西出張の際は必ず立ち寄るという東京のお客がたくさんいた」(バーボンハウスの営業当時を知る関係者)。
これらの店では古くから上田正樹とサウス・トゥ・サウス、憂歌団など、音楽ファンの間で伝説となっているバンドが活躍。70年代にはプロ・アマ合わせて大阪と京都に200ずつ、計400ものバンドが活動していた。今や全国区の2人組、コブクロも2000年にバナナホールで初のワンマンライブを開いている。
「ライブハウスがなかった時代には、大阪や三宮のスナック、ビアガーデンを弾き語りとして渡り歩いた」というBOROも、その後に次々とできたライブハウスとの縁は深い。
●濃密な付き合い
特に思い入れが深いのは70年代に開業したバーボンハウスだ。後年、客の転倒事故が引き金となり閉店したが、米国の古い酒場を思わせる雰囲気や大阪駅に近いという好立地から多くの客を集めた。
客層は比較的若く、拠点としていたBOROは客の兄貴分的存在だった。常連客との関係も濃密で、大学入試に落ちたとヤケ気味の若い客をステージから「こんなところに来ていないで勉強しろ」と説教。1年後、合格して戻った若者を同じ場所から祝福したという逸話も残している。
この若者のような、ライブハウスに通うファンの熱さも関西の特徴といえる。年間6万人の客が入ったバナナホールもそうだった。入居していたビルから立ち退きを迫られて営業を休止したが、一時は「籠城(ろうじょう)ライブ」と称してファンと歌い手が抵抗。2007年9月の最終ライブに約300人が詰めかけて別れを惜しんだことも、語り草になっている。
「関西という土地はとにかくパワーをくれる」とBORO。神戸・生野高原を拠点に定めた今、多くのライブハウスでたくさんのファンと触れ合える関西の恩恵を改めて感じている。
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心を揺さぶるなにわのブルース。その源泉はどこにあるのか。歌い手たちの軌跡から探る。=敬称略
(編集委員 吉田公彦)
BORO 本名・森本尚幸(もりもと・なおゆき)1954年、兵庫県伊丹市生まれ。79年、内田裕也プロデュースの「都会千夜一夜」でデビューし、同年発売の「大阪で生まれた女」がヒットした。沢田研二や森進一に楽曲を提供したり、島田紳助監督の映画「風、スローダウン」の音楽を手掛けたりと作曲家としても活躍。現在、新アルバムの発売に向けて創作中。筋ジストロフィー症の少女との出会いをきっかけに、研究推進のための基金設立、寄付、チャリティーコンサートの開催など、難病患者の支援にも力を注いでいる。
●原曲は大阪に帰郷
「大阪で生まれた女」の普及版は、主人公の女性が恋人と東京へ行く決意をして終わる。原曲では東京・池袋で暮らした後、1人で帰郷。恋人との生活を前向きに振り返る女性と活気にあふれた大阪の街が重なったところで幕となる。
長いストーリーをたどる歌は今でこそエンドレスソング(終わりのない歌)として認知されているが、70年代ではまれ。しかも当時は必ずしも受けが良くなかった関西弁だ。
そんな逆風を押し戻した原動力は関西人の応援だけではなかった。なぜか北海道では早くから注目され、有線放送で最初に火がついたのも札幌。BORO本人も「理由はわからない」と首をかしげる。ススキノの夜に、なにわのブルースは何を響かせたのか。